こんにちは、くーみんです。
今日も投資コラムを書いていきます。整形外科医として手術室に立ちながら、お金にも真剣に向き合っています。少しでも参考になれば嬉しいです📝
はじめに
現代の世界経済は、米ドルが基軸通貨として君臨する「ドル覇権」の下で成り立っています。この基盤を支えてきたのが、金本位制の崩壊後の「ペトロダラー体制」です。石油取引をドル建てにし、産油国から得た資金を米国に還流させる仕組みは、アメリカの財政赤字を支え、軍事力・経済力を強化してきました。
しかし、中国・ロシアを中心とした脱ドル化の動き、BRICS諸国の台頭、サウジの人民元建て取引開始などにより、この体制は揺らぎ始めています。一方で、イラク戦争やリビア介入など、ペトロダラーに反対する国々がアメリカ(または同盟国)の軍事行動の標的となった事例も指摘されます。本稿では、これらの歴史的経緯を整理し、現在のアメリカの思惑を考察します。
1. 金本位制の歴史と崩壊
金本位制とは、紙幣の価値を金に裏付け、一定量の金と交換可能とする通貨制度です。19世紀にイギリスで本格化し、国際金本位制として世界に広がりました。各国は保有する金の量に応じて通貨を発行するため、インフレを抑え、国際的な信用を高める効果がありました。
しかし、第一次世界大戦で各国が金の流出を防ぐため輸出を禁止。戦後復帰を試みましたが、世界恐慌(1929年)で限界が露呈しました。1931年にイギリスが停止、1933年にアメリカも離脱。第二次世界大戦後、1944年のブレトン・ウッズ協定で「金・ドル本位制」が生まれました。米ドルだけが金(1オンス=35ドル)と交換可能で、他の通貨はドルに固定。これによりドルが基軸通貨となりました。
ニクソン・ショック(1971年)で転機が訪れます。ベトナム戦争の財政悪化や貿易赤字で、金準備が不足。ニクソン大統領はドルと金の交換停止を発表しました。これにより金本位制は事実上崩壊し、1973年に変動相場制へ移行。ドルは「信用通貨」となりましたが、価値の裏付けを失い、信頼が揺らぎました。
2. ペトロダラー体制の成立
金裏付けを失ったドルを支えるため、アメリカは石油に着目しました。1973年の第4次中東戦争と第一次石油危機で原油価格が急騰。キッシンジャー国務長官はサウジアラビアと密約を結びました(ワシントン・リヤド密約)。あくまで「密約」であったため、公式の調印式や記念写真は公開されていません。
内容は:
• サウジは石油をドル建てで販売。
• 余剰資金(ペトロダラー)を米国債などに投資。
• アメリカはサウジの安全保障を保証(軍事支援)。
これがOPEC諸国に広がり、世界の石油取引の多くがドル建てに。産油国はドルを受け取り、それを米国資産に還流させる「再循環」構造が生まれました。
これにより:
• 世界各国が石油購入のためドルを必要とする(需要創出)。
• 産油国の資金が米財政赤字をファイナンス。
• ドル覇権が石油という実物資産で裏付けられた「石油本位制」へ移行。
この体制はアメリカに「過剰特権(Exorbitant Privilege)」をもたらしました。貿易赤字をドル発行で賄え、制裁の武器としても機能します。
1970年代前半に撮影されたアメリカのヘンリー・キッシンジャー国務長官(左)とサウジアラビアのファイサル国王(右)による歴史的な外交会談の様子です。1973年の第四次中東戦争の際、アメリカがイスラエルを支持したことへの抗議として、ファイサル国王率いるサウジアラビアなどのアラブ石油輸出国機構(OAPEC)加盟国は、アメリカを含む西側諸国に対して石油禁輸措置(オイルショック)を行いました。キッシンジャー国務長官は禁輸措置を解除させるため、サウジアラビアのリヤドを訪れファイサル国王と直接会談・交渉を重ねました。この一連の交渉は、のちに米ドルを世界の基軸通貨としてさらに強固なものにした「ペトロダラー体制」(原油取引を米ドル建てのみで行う仕組み)の基盤形成へと繋がっていきました。
3. 石油取引とドルの関係
原油の国際指標(WTI、Brentなど)はすべてドル建て。メジャー石油会社の影響やNYMEXなどの先物市場の慣行が背景にあります。非ドル建て取引は稀で、ドル需要を恒常的に生み出します。ペトロダラー規模は数兆ドル規模と推定され、米国債市場を支えています。
4. ペトロダラー反対国への対応—攻撃の事例?
一部の論者や陰謀論では、「ペトロダラーに反対する国はアメリカに攻撃される」と指摘されます。主な事例:
• イラク(2003年):サダム・フセイン政権は2000年に石油をユーロ建てで販売開始。湾岸戦争後、大量破壊兵器(WMD)を理由に米英が侵攻。政権崩壊後、石油取引は再びドル中心に。WMDは見つからず、石油利権やペトロダラー維持が真の動機との見方があります。
2003年4月9日にイラクの首都バグダッドにあるフィルドウス広場(Firdos Square)で、サダム・フセイン大統領の巨大な銅像が引き倒される瞬間を捉えた歴史的な写真です。米軍主導のイラク侵攻が始まった約3週間後、首都バグダッドが陥落したこの日、地元住民やアメリカ海兵隊の手によってこのブロンズ像が引き倒されました。この出来事はフセイン独裁政権の崩壊を告げる決定的な瞬間として、世界中のメディアで生中継され、大きく報道されました。集まった市民らが台座をハンマーで叩き、首にワイヤーをかけました。最終的には、米海兵隊の装甲回収車(クレーンを装備した車両)がワイヤーを引っ張る形で像を引き倒しました。当時、世界中で「イラク解放」の象徴として報じられたこの映像ですが、後に「実際には広場に集まっていた群衆は少人数であり、米軍のメディア戦略(プロパガンダ)として演出・誇張された側面が強かったのではないか」という検証や批判的な議論もなされています。背景に写っている美しい青いドームの建物は、広場に隣接する「17thラマダン・モスク(17th of Ramadan Mosque)」です。
2003年2月5日にコリン・パウエル米国務長官(当時)が国連安全保障理事会で行った演説の象徴的な写真 に、左翼系紙「People’s World」の紙面をデジタル合成したものです。パウエル国務長官はイラクが大量破壊兵器(WMD)を保有していると主張し、イラク戦争への支持を取り付けるための演説を行いました。演説中、彼はわずかな量の炭疽菌(イラクが保有していると主張された生物兵器)がどれほど致命的であるかを視覚的に示すため、白い粉が入った小さなバイアル(小瓶)を掲げました。後にイラクに大量破壊兵器は存在しなかったことが判明し、パウエル氏自身もこの演説を人生の「最大の汚点」と認めています。
• リビア(2011年):カダフィ大佐はアフリカ統一通貨(金本位構想)や石油の非ドル取引を推進。NATO介入で政権崩壊。結果、現在もリビアは派閥対立と混乱が続き、安定を取り戻せていない。
かつてリビアの最高指導者だったムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ大佐)の姿をまとめたものです。2009年9月23日、ニューヨークの国際連合本部で開催された第64回国連総会での、カダフィ大佐による歴史的な初演説の様子です。 本来の持ち時間は15分でしたが、それを大幅に超過して1時間30分以上(約96分)にわたり熱弁を振るいました。 演説では安全保障理事会の常任理事国による拒否権行使を「テロ評議会」と激しく批判し、演説中に国連憲章の冊子(またはその一部)を破り捨てる大胆なパフォーマンスを見せ、世界中で大きな話題となりました。上段(アフリカ連合の首脳陣との写真) カダフィ大佐がアフリカ連合(AU)の議長を務めていた時期(2009年〜2010年頃)に、アフリカ各国の首脳たちと並んで撮影された写真です。 カダフィ大佐は「アフリカ合衆国」構想を掲げ、大陸の統合を強く推進していました。
この画像は、リビアの元最高指導者ムアンマル・アル=カダフィ(カダフィ大佐)がかつて提唱した、米ドルに対抗する金本位制の共通通貨「ゴールド・ディナール(Gold Dinar)」の構想に関する陰謀論や歴史的解説動画のサムネイルとみられます。この構想にまつわる主な経緯と背景は以下の通りです。
カダフィは、アフリカ諸国が米ドルやユーロ、フランスのCFAフランへの依存を脱却し、金(ゴールド)に裏付けられた独自の共通通貨「ディナール」を導入することを計画していました。彼はリビアの石油や他国からの資源決済を、米ドルではなくこのゴールド・ディナールで行うようアフリカやアラブの産油国に呼びかけました。この構想がアメリカの通貨覇権(ペットドル体制)を脅かすものだったため、2011年のリビア内戦時、欧米諸国がカダフィ政権を崩壊させるために介入したという説(陰謀論的な側面を含む)がネット上で広く語られています。後に公開されたヒラリー・クリントン元国務長官の私的メールの中に、カダフィが大量の金と銀を保有し、独自の通貨を確立しようとしていたことをフランスの諜報機関が警戒していた、という旨の報告が含まれていたことがこの噂に拍車をかけました。
この地図は、2011年に行われたリビア国際軍事介入(オデッセイの夜明け作戦、およびその後のNATO主導によるユニファイド・プロテクター作戦)における飛行禁止空域(No-Fly Zone)の設定と、作戦に利用された空軍基地および参加国の概要を示しています。カダフィ政権による反体制派や民間人への武力弾圧を阻止するため、国連安保理決議1973に基づいて実施されました。地図上の赤い斜線エリア(リビア北部の主要都市を含む範囲)で、リビア政府軍の航空機が飛行することを禁止しました。 参加国と基地の配置 広範な多国籍軍: NATO加盟国(米、英、仏、伊、加など)に加え、カタールやアラブ首長国連邦(UAE)などのアラブ諸国も参加しました。リビアに近い地中海沿岸の国々(イタリア、ギリシャ、スペイン、キプロス)の基地が、航空機の出撃や後方支援の最前線拠点として機能しました。 空爆地点(黄色の星マーク): 首都トリポリ、ミスラタ、ベンガジ、アジュダービヤ、サブラなど、政権軍の防空陣地や軍事拠点が密集する都市に対して、多国籍軍による空爆(Coalition Strikes)が行われました。 この作戦は、カダフィ政権の制空権を奪うことで反体制派を優勢に導き、同政権が崩壊する決定的な要因となりました。
2011年リビア内戦において、長年独裁体制を敷いていたムアマル・カダフィ大佐の旧政権軍を打倒した反カダフィ勢力(国民評議会:NTCの兵士ら)が勝利を祝っている場面を捉えたものです。 2011年10月20日 場所: カダフィ大佐の出身地であり、旧政権軍の最後の拠点となった沿岸の都市シルト(Surt / Sirte)。反カダフィ勢力の戦闘員たちがシルトを完全に制圧し、カダフィ大佐が拘束・死亡した直後に歓喜する様子が写されています。彼らが掲げている赤・黒・緑に三日月と星をあしらった旗は、カダフィ政権以前(リビア王国時代)の意匠を復活させたもので、内戦を機に新しいリビアの国旗として採用されました。このシルト陥落とカダフィ大佐の死により、42年間に及んだカダフィ独裁政権は事実上完全に崩壊しました。
• イラン:長年米国制裁下。石油取引で人民元や他の通貨使用を試み、核開発疑惑などで圧力。近年も緊張が続く。イランに関しては現在まさにアメリカと戦争に至っていますので、イランの核開発の歴史について下に詳しく記載します。
イランの核開発の歴史は、1950年代に米国の支援による平和利用として始まり、政変、秘密開発の露呈、国際協調(核合意)、そして合意破棄に伴う現代の深刻な対立へと変遷してきました。
時系列ごとの主な経緯は以下の通りです。
-
親米王政期:米国主導の始まり(1950〜1970年代)
平和のための原子力:1957年、米国のアイゼンハワー大統領が提唱した「平和のための原子力」計画に基づき、米国とイランの間で原子力協力協定が締結されました。
NPTの批准:イランは1968年に核不拡散条約(NPT)に署名し、1970年に批准しました。当時は欧米(米国、西ドイツ、フランスなど)の強力なバックアップを受けて原発建設や技術者育成を進めていました。
2. イスラム革命と中断(1979〜1980年代)
欧米との断絶:1979年のイスラム革命によって親米王政が崩壊し、反米・反イスラエル路線のイスラム共和国が誕生しました。
計画の中断:これにより欧米諸国は技術協力から一斉に撤退し、建設中だったブーシェフル原発なども放置され、核開発は一時完全に中断しました。その後、イラン・イラク戦争のさなかに、ロシアや中国などの協力を得て自主的な開発路線へとシフトしていきました。
3. 秘密開発の露呈と国際制裁(2002〜2013年)
秘密施設の暴露:2002年、イランの反体制派組織の告発により、ナタンツのウラン濃縮施設やアラクの重水炉といった、国際原子力機関(IAEA)に未申告の秘密核施設の存在が明るみに出ました。
世界的な孤立:国際社会はイランが軍事用の核兵器開発を狙っていると強く警戒し、国連安全保障理事会や米国、EUは相次いで厳しい経済・金融制裁を科しました。
4. 2015年「イラン核合意(JCPOA)」の締結
歴史的な妥協:2015年、当時のオバマ米政権を中心に、欧米・中露の6カ国とイランとの間で「包括的共同行動計画(JCPOA)」、通称「イラン核合意」が結ばれました。
制限と解除:イランはウラン濃縮度を原子力発電に適した低濃度(3.67%)に抑え、遠心分離機も大幅に削減することに同意。その見返りとして、国際社会は経済制裁を解除・停止しました。
5. 合意の崩壊とウラン濃縮の加速(2018年〜現在)
米国の離脱:2018年、米国のトランプ政権(第1期)がこの合意を「史上最悪の取引」として一方的に破棄し、イランへの制裁を再開・強化しました。
濃縮の再加速:反発したイランは合意履行の義務を段階的に停止し、ウラン濃縮を大幅に加速。IAEAの報告では、核兵器級(90%)に迫る「60%高濃縮ウラン」を400キログラム以上保有する事態にまで至りました。
軍事衝突の勃発:こうした核開発の進行と中東情勢の緊迫化を背景に、2025年6月にはイスラエルによる奇襲攻撃や、トランプ政権(第2期)の米国によるフォルドゥやナタンツなどのイラン主要核施設への空爆が実施されました。
イラン政府は現在も「核開発は平和利用が目的であり、破壊された施設も数カ月で復旧できる」と主張する一方、米国やイスラエルは完全に核武装を阻止する姿勢を崩しておらず、交渉と緊張状態が並行して続いています。
この画像は、2015年7月14日にオーストリアのウィーンでイラン核合意(包括的共同作業計画:JCPOA)が最終合意に達した際、P5+1(国連安保理常任理事国5カ国+ドイツ)および欧州連合(EU)の代表、そしてイランの外相が一堂に会して撮影された記念写真です。並んでいる人物の氏名と当時の役職は、左から以下の通りです。王毅(おう き) – 中国外交部長(外相) ローラン・ファビウス – フランス外務大臣 フランク=ヴァルター・シュタインマイヤー – ドイツ外務大臣 フェデリカ・モゲリーニ – 欧州連合(EU)外務・安全保障政策上級代表 モハンマド・ジャヴァード・ザリーフ – イラン外務大臣 セルゲイ・ラブロフ – ロシア外務大臣 フィリップ・ハモンド – イギリス外務大臣 ジョン・ケリー – アメリカ合衆国国務長官 10年以上に及ぶ外交交渉の末に成立したこの歴史的な合意は、イランが核開発を大幅に制限する見返りとして経済制裁を解除する内容でした。
イランの核施設は、テヘラン、フォルドゥ(Fordow)、ナタンズ(Natanz)、エスファハーン(Isfahan)、ブーシェフル(Bushehr)などの主要都市や地域に分散して存在しています。 左側の地図には、研究施設、ウラン採掘・製錬、燃料製造、ウラン濃縮、原子力発電、核廃棄物管理といった機能別の記号が示されており、右側には実際の核施設(エスファハーンの核技術センターなど)の衛星写真が並んでいます。 各主要施設の役割は以下の通りです。 主要施設の機能 テヘラン (Tehran):主に研究用原子炉や医療用アイソトープの製造を担当。 フォルドゥ (Fordow):山の中央に深く建設された、高度なウラン濃縮を行う堅牢な地下施設。 ナタンズ (Natanz):イラン最大規模のウラン濃縮工場(遠心分離機)が存在する中枢拠点。 エスファハーン (Isfahan):ウランの転換施設(UCF)や燃料製造、核技術研究センターが集まる拠点。 ブーシェフル (Bushehr):ペルシャ湾沿いに位置する、イラン唯一の商業用原子力発電所。
ホルムズ海峡の通行料を中国人民元(または暗号資産)で支払うことを義務付けたイランの規制政策を巡る、世界のエネルギー市場および「ペトロユアン(石油人民元)」の台頭に関するニュースの風刺・解説用イメージ図です。中東情勢の緊張(米イスラエルとイランの対立)を背景に、イラン政府が国際的なドル経済圏の制裁を回避し、中国との経済的結びつきを強めるために打ち出した地政学的な動きを表しています。ホルムズ海峡の通行制限と関税(通行料) 世界の原油輸送の約2割が通過する重要拠点、ホルムズ海峡を通過するタンカーが描かれています。 イラン側は通過するタンカーに対し、1バレルあたり約1ドルの通行料支払いを要求する案を打ち出しました。米ドル排除と中国人民元の義務化 画像の右側には中国の「100人民元札」が強調されています。イランは米国の金融制裁を回避するため、通行料の決済手段を米ドルではなく中国人民元やステーブルコイン(暗号資産)に限定しました。「ペトロユアン」の台頭と国際市場への影響 エネルギー決済におけるドルの優位性(ペトロダラー)を揺るがす動きとして、国際市場や金融ニュース(Bloombergやロイターなど)で大きく取り上げられました。 この規制は世界のエネルギー価格暴騰リスクや、中国によるクロスボーダー決済の拡大を後押しする要因となっています。
• ベネズエラ:反米政権下で非ドル取引推進。経済制裁・介入圧力。
この画像に写っている人物は、ベネズエラの第53代大統領を務めたウゴ・チャベス(Hugo Chávez)氏です。反米・社会主義政策の象徴で、ベネズエラ・ボリバル共和国元大統領(在任: 1999年〜2013年)、元陸軍中佐であり、1992年にクーデター未遂事件を起こしたのち、民政移管後の選挙で当選しました。画像で着用している「赤色のベレー帽」と緑色の軍服は、彼のトレードマークであり、空挺部隊出身の軍人としてのルーツや「ボリバル革命」の象徴として知られています。ウゴ・チャベス(Hugo Chávez)は2013年に死去しています。 詳細 • 死去日: 2013年3月5日(享年58歳) • 死因: 癌(骨盤部に発生した癌で、2011年頃に発覚し、キューバなどで治療を受けていましたが、病状が悪化) • 当時の状況: 2012年の大統領選挙で再選された直後でしたが、病状のため公の場に姿を見せなくなり、2013年3月に死去が発表されました。死去後、副大統領だったニコラス・マドゥロが大統領代行となり、その後正式に大統領に就任しました。 死去後の影響 チャベスの死去はベネズエラに大きな転機をもたらしました。マドゥロ政権はチャベス主義(ボリバル革命)を継承すると主張しましたが、原油価格の下落、経済政策の失敗、米国を中心とした経済制裁の強化により、深刻なハイパーインフレ・食料・医薬品不足・大量の難民流出(600万人以上)が発生。
南米ベネズエラの元大統領であるニコラス・マドゥロ(Nicolás Maduro)氏です。マドゥロ氏は2013年から長期にわたり同国の独裁政権を率いてきましたが、2026年現在の彼の状況は激変しています。2026年1月3日未明、ドナルド・トランプ米政権が実行した大規模な軍事作戦(Operation Absolute Resolve)により、マドゥロ氏は妻のシリア・フローレス氏とともにベネズエラの首都カラカスで身柄を拘束されました。その後ただちにアメリカ国内へ連行されています。身柄をニューヨークに移送されたマドゥロ氏は、コカインの密輸や麻薬テロ、武器不法所持などの複数の罪に問われ、現在は連邦地方裁判所にて裁判を受けています。本人は法廷で「私は誘拐された大統領であり、戦争捕虜だ」と述べ、起訴内容について無罪を主張しています。裁判が進行するなか、ニューヨーク市ブルックリンにあるメトロポリタン拘置所(MDC)に勾留されています。マドゥロ氏の失脚・拘束に伴い、ベネズエラ国内ではデルシー・ロドリゲス(Delcy Rodríguez)副大統領が暫定大統領に就任し、アメリカとの関係再構築や新体制への移行プロセスが進められています。画像で着用している黄・青・赤の三色サッシュ(大統領章)は、ベネズエラの国旗の色を模したもので、彼が権力の絶頂にあった大統領在任時の姿を示しています。
本記事は情報提供を目的としており、特定の金融商品の売買を推奨するものではありません。投資に関する最終的な判断はご自身の責任で行っていただき、本記事内容に基づく損失について当サイトは一切の責任を負いません。